きょう届いた科学史の方のメールに触発されて再会した一文。
四年、十八歳の東伏見宮博英殿下、考古学の宮さんが、諏訪地方考古学の踏査にやってきた。全郡表面採集に歩き、宮さんの歩く先き先きに、珍品遺物を撒いたり、一族の名誉とばかり献上した例も多かった。茅野市の山口遺跡では、埋めて置いた土器を掘られたが、この尖石では、試掘たちまちに、本当に数個の土器の埋没に当った。何しろ、何かある度に、いくらかの御下賜金が下るのだから、人々も懸命である。
(藤森栄一1970『信濃の美篶』、学生社、62頁)
あのとき、このことを即座に思い出し──記憶では三笠宮だったが──ながめていた。考古学の、彼我を貫く紛うことなきエスノグラフィ。冒頭「四年」とは、昭和4年のこと。