記念、記録、記憶の階級性

スーの人たちは、ラシュモア山の移動を言う。「記念」の階級性の問題であろう。古典古代からの「記録」、当世流行の「記憶」も想起すれば、「記」それじたいの階級性と言い得、リテラシとイリテラシの階級闘争に想到する。

狭義の博物館は、記念、記録、記憶していればよい。広義の博物館(/反博物館)は、「リテラシ/イリテラシ」の揚棄を本質とする。ここに、いわゆる博物館の弁証法の出発点があると思う。

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