「斎藤主」をインターネットで検索したところ、「不識塔その2─斎藤主(つかさ)の生涯 – 続・カクレマショウ」がヒット。以下、関係する部分の引用。
斎藤主は、万延元(1860)年、西目屋村の隣に位置する弘前市に生まれました。父は弘前藩士でしたが、廃藩置県後、今別町で私塾を開いており、彼は母のもとで育てられました。12歳の時上京しようとして家出、秋田県大館で見つかり、家に連れ戻されるという事件を起こしています。
彼が東京行きを果たしたのは17歳の時。小さい頃からの特技を生かし、書家になるべく様々な職を転々としますが、結局、明治10(1874)年に勃発した西南戦争に乗じる形で警察官に採用されています。しかしそれも長続きせず、彼は一旗揚げようと北海道に渡ります。各地で役人生活を送りながら、英語や測量学、天文学などを習い、その知識を生かして北海道の奥地から千島、国後などの調査・測量に従事しました。
明治18(1885)年、26歳の時に故郷の青森に戻り、青森県庁土木課に配属されるものの、2年後には会計長として大阪の土木会社に入社、西日本各地の土木工事に関わることになります。一時的に請われて香川県庁や兵庫県庁の土木担当を任されたりもします。またこの間、九州鉄道土木工事測量の時に知り合った下宿屋の娘ナヲと結婚しています。
斎藤が、「北海道旧土人頭骨」を東京教育博物館に寄贈したのは明治17年であり、上記「明治18(1885)年、26歳の時に故郷の青森に戻」る前年のことになる。それ以前、「彼は一旗揚げようと北海道に渡り」「各地で役人生活を送りながら、英語や測量学、天文学などを習い、その知識を生かして北海道の奥地から千島、国後などの調査・測量に従事し」たとあるため、この時期に「北海道旧土人頭骨」を入手したのであろう。