1970年代の「運動」とパラリンピックの表象

渡正「障害者スポーツによる儀礼的関心の構築―1970年代の「運動」とパラリンピックの表象―」『千葉大学日本文化論叢』第8号、千葉大学文学部日本文化学会、2007年7月、93-106頁、を読む。
ずうっとずうっと気にかかっていた東京パラリンピック。小学校低学年の私にも、ちょっと、「関心」事だった。いえ、それ以後の私が、それを「関心」事にとどめさせてきたのだろう。そして、青い芝の会。あ、「さよならCP」。

おそらく、青い芝やドッグレッグスの実践が目指した、「一方的な差異化=意味化の不当性の告発」(倉本 1999:246)にさえ届いていないのが現状であろう。

えっ、ほんとうに?
(いや、そうなのだろう。)

つまり、障害者スポーツを「健常者」が行うスポーツと同等なものと捉えたうえで、「障害者と健常者の身体」の差異にこだわって記述を行うことを目指すのである。各々のスポーツの「固有性」を論じていくことが、「身体」に「無礼な注目」をしていく契機になる。

私には、「「障害者と健常者の身体」の差異にこだわって」用具・施設等商品開発をおこない、この人たち双方にまつわる生産―流通―消費をつくる、と読める。東京パラリンピックとただいまの、物量的差異は圧倒的だからだ。
(おもしろかったです。きちんと読み直し、私のテーマに即して考えてみたいと思います。)

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