メアリー・カサット「桟敷席にて」のこと

総じて美術館の市場」を考えていたとき、メアリー・カサット「桟敷席にて」を参照する記事に接した(1) 。以下は、その際に感じたことの覚え書きである(2)

記事は、冒頭で次のように書く。

 印象派の女性画家メアリー・カサットによる絵画《桟敷席にて》(1878年)には、オペラグラスで熱心に舞台を見る女性が描かれている。だが背景に目をやると、画面左上に、舞台そっちのけでこの女性をオペラグラスで盗み見る男性がいることに気づく。舞台を鑑賞する女性は、同時に男性の視線にさらされる、「見られる」女性でもあった(3)

この女性の座る桟敷席は、2階またはそれ以上に位置する。したがって舞台は、彼女の前方の下方にある。しかし、彼女のオペラグラスは彼女の正面を向いている。舞台を見ていないように見えるのである。上演中であれば、芝居を見ていないことになる。

上演中ではないのかもしれない。開演前、幕間、終演後であれば、舞台上の芝居を見ていなくてよい。その視線の方向から、彼女は舞台上の芝居以外のなにかを見ているのではないかという疑問に到る。あえて言えば、方向は同一階の桟敷席。人を探している、見ているのかもしれない。男性でも女性でもよい。

一方で後景の男性は、「舞台そっちのけでこの女性をオペラグラスで盗み見る」とされた。上演中でなければ、「舞台そっちのけで」は当たらない。「盗み見る」と言うには、手すりから身を乗り出していて、あからさまに過ぎる。(もちろん、自分が見ていることを相手にわかるように大袈裟にふるまい、相手の注意、関心を惹こうとすることはよくある。見られていることに気づかないふりをすることも然り。)

果たして、彼は彼女を見ているのだろうか。筆致とあわせて図像が小さく細部が不明なため、そのオペラグラスの向く方向は(持っている?のはオペラグラか?!)、彼の席の前方左側であること以上に定かでない。やはり、人を探している、見ているのかもしれない。対象の性別は詮索不可能である。

彼が身を乗り出していることから察すると、乗り出さなければ見えにくい場所のなにかが目的であるように感じられもする。彼女の位置からは、身を乗り出さなくても彼が見えているから、彼も身を乗り出さずに彼女が見えるはずである。あるいは、彼女の右側の席をのぞき込んでいるのだろうか。

この絵を帰納的に見来たると、「オペラグラスで熱心に舞台を見る女性」「舞台そっちのけでこの女性をオペラグラスで盗み見る男性」「舞台を鑑賞する女性は、同時に男性の視線にさらされる、「見られる」女性」とみなすには欠失や不要が多く、端的に言って危うい。

結語で記事は、「桟敷席にて」にふたたび触れる。

 カサットが不均衡なジェンダー構造を作品に描き留めてから、140年が経過した。文化を創造する側であろうと努めたこの女性画家は、男性の不躾な視線にさらされる若い女性を、ただの素材として描くことはしなかった。女性にオペラグラスという能動的に鑑賞するための道具を持たせて「見る側」に置いたのである。この「挑戦」がいまだ有効であることを非常に残念に思う。
 「美術館女子」というプロジェクトは、「アートの力を発信していく」とうたっていた。アートの力とは何か。それは既存の価値観をなぞることではなく、カサットが示したように、世界と向かい合う新しい視点に気づかせることではなかっただろうか(4)

「男性の不躾な視線にさらされる若い女性」という謂いが危うことは、上に見た。「女性にオペラグラスという能動的に鑑賞するための道具を持たせて「見る側」に置いた」というのも同然である。

付言すると、老若不詳の男性と若い女性が対置されているのはトリッキーである。老若不詳の男性の不躾な視線にさらされるのは、若い女性でなければならないのかもしれない。この女性が若いかどうか、絵からはわからないにもかかわらず──。

ところで、前景の女性と後景の男性を抽出すれば二項図式になるのは当然で、話題が前後するが、冒頭の「熱心に舞台を見る女性/舞台そっちのけで女性を盗み見る男性」からして、トリッキーだったと言える。通俗的な予断と偏見を動員すれば、「まじめな女性/ふまじめな男性」が埋め込まれているかのようである。

そして絵には、二人のほかにも複数の人がいた。これらの人びとを削除して成り立つトリックであったということは、注意されてよい。ちなみに、削除せずに考える例題を文末に添えてみた。

二、三、問うておこう。第一に、オペラグラスは男性も持っていた。男性と同じ道具を持つことで「見る側」になったと賞揚される女性とは何か。そして第二に、「見る側」になった彼女に「見られている側」は何か。(それが芝居でない可能性については、すでに示したとおりである。)オペラグラスの政治性、階級性とは何か、が第三である。

さて、オペラグラスを指標にして能動性を見るのであれば、身を乗り出す姿勢にもそれを認めてよいだろう。彼女も男性と同様、手すりに右肘を乗せ、やや上半身を前に乗り出していた。描かれた複数の人物のなかで、二人と他とを分かつ要素がそこにある。しかし、これも先述の二項図式から自由でない。もっと重層的に見たいと思う。

  1. メアリー・カサット「桟敷席にて」の画像をここに載せません。検索されるか、引用先 https://www.tokyo-np.co.jp/article/40981 でご覧ください。
  2. 先行研究にあたっていないことをお断りします。ご海容のほどを冀います。
  3. 「閉鎖に追い込まれた「美術館女子」 女性は「見られる」 <寄稿>吉良智子さん:東京新聞 TOKYO Web」 https://www.tokyo-np.co.jp/article/40981、2020年7月23日閲覧。
  4. 「閉鎖に追い込まれた「美術館女子」 女性は「見られる」 <寄稿>吉良智子さん:東京新聞 TOKYO Web」 https://www.tokyo-np.co.jp/article/40981、2020年7月23日閲覧。

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