ここにポストされているセンテンスを目にすると、初めてお会いしたときに伺った話題の一つを思い出しました。 現代資料と呼称される展示は、果たしてノスタルジィだけを訴える展示だけのものなのだろうか、といったことだったと記憶します。 喪失してきたものを代行してもらった場所でまた再生する、 😉 といえるのかどうか。 代行装置を当てにして、喪失を急ぐことは、記憶の、ひいては思考の断片化につながる危惧を覚えます。 職業柄、ITの利便性を訴えなければ行けない側の人間ではありますが、だからこそこの種の断片化の弊害を実感している立場にいるといえます。 同時に拙稿にて述べた「一繋ぎの展示」とは真っ向対峙する感覚にもみえます。もっとも、択一の性質をもった二者ではないのですが。 CMのような礫様なメッセージの発信なのか、このようなコメントやEmeil、それこそ手紙のような連綿としたテクスト様なそれか。 いずれにせよ、展示という形で発信する側は、この二者の手札を有しているのであって、なにも礫を投げるばかりが策ではではない。そんなことを思います。
代行装置を当てにして、喪失を急ぐこと これは極端でした。代行装置を当てにして、喪失を許してしまうこと、というべきでした。 わが町Y市は、要塞地帯であったがゆえにその関連の発掘調査が増えています。薄れてきたとはいえ、まだ存在する同時代としての記憶。 調査担当者と飲んでいて最近ちょくちょく口にするのは、全てを声高に主張して良いのかどうかということです。 遺族がご存命でもその最後の状況を思わせるところまで報告に著して良いものか、といったこともあります。 こういったことに、学生がアメリカのネイティブアメリカンと戦ったカスター将軍の最後の状況を発掘したそれに匹敵すると盛り上がっていたのを憤慨していました。これは、同時代の感覚、というか時代がつながって今に至ってきているという感覚が、やはり考古学関係者にない証左といえます。 捏造も72万年という途方もない数値でその感覚を断ったことによって起こった錯誤という当初の直感は、あながち間違ってなかったということでしょうか。 🙁
あきらめなされよ あきらめなされ あきらめなさるが無事であろう わたしゃ自由の動物だから あきらめきれぬとあきらめる 嗚呼、高田渡さんのあの風貌からこれを唄われた日にゃ、「そうかな」と思えてしまうかもしれませんね。 これに倣い、もはや忘れられぬと忘れるのが常なれど、それでも忘れず他者に伝えたいものがある、そういうのなら、それはもはや記憶というライフサイクルからは外れる別個のものなのかもしれませんね。「わたしゃ自由の動物だから」こそ、その流れからも自由になるものも顕れるというのはまた性急に過ぎるのやもしれませんが。 😉
ここにポストされているセンテンスを目にすると、初めてお会いしたときに伺った話題の一つを思い出しました。
現代資料と呼称される展示は、果たしてノスタルジィだけを訴える展示だけのものなのだろうか、といったことだったと記憶します。
喪失してきたものを代行してもらった場所でまた再生する、 😉 といえるのかどうか。
代行装置を当てにして、喪失を急ぐことは、記憶の、ひいては思考の断片化につながる危惧を覚えます。
職業柄、ITの利便性を訴えなければ行けない側の人間ではありますが、だからこそこの種の断片化の弊害を実感している立場にいるといえます。
同時に拙稿にて述べた「一繋ぎの展示」とは真っ向対峙する感覚にもみえます。もっとも、択一の性質をもった二者ではないのですが。
CMのような礫様なメッセージの発信なのか、このようなコメントやEmeil、それこそ手紙のような連綿としたテクスト様なそれか。
いずれにせよ、展示という形で発信する側は、この二者の手札を有しているのであって、なにも礫を投げるばかりが策ではではない。そんなことを思います。
これは極端でした。代行装置を当てにして、喪失を許してしまうこと、というべきでした。
わが町Y市は、要塞地帯であったがゆえにその関連の発掘調査が増えています。薄れてきたとはいえ、まだ存在する同時代としての記憶。
調査担当者と飲んでいて最近ちょくちょく口にするのは、全てを声高に主張して良いのかどうかということです。
遺族がご存命でもその最後の状況を思わせるところまで報告に著して良いものか、といったこともあります。
こういったことに、学生がアメリカのネイティブアメリカンと戦ったカスター将軍の最後の状況を発掘したそれに匹敵すると盛り上がっていたのを憤慨していました。これは、同時代の感覚、というか時代がつながって今に至ってきているという感覚が、やはり考古学関係者にない証左といえます。
捏造も72万年という途方もない数値でその感覚を断ったことによって起こった錯誤という当初の直感は、あながち間違ってなかったということでしょうか。 🙁
嗚呼、高田渡さんのあの風貌からこれを唄われた日にゃ、「そうかな」と思えてしまうかもしれませんね。
これに倣い、もはや忘れられぬと忘れるのが常なれど、それでも忘れず他者に伝えたいものがある、そういうのなら、それはもはや記憶というライフサイクルからは外れる別個のものなのかもしれませんね。「わたしゃ自由の動物だから」こそ、その流れからも自由になるものも顕れるというのはまた性急に過ぎるのやもしれませんが。 😉